というわけで本日は紀伊国屋ホールにて「イラク攻撃と有事法制に反対する演劇人の会」に参加した。参加というか、受付のお手伝い。800部刷ったパンフがほとんどなくなり、ロビーにまで人が溢れていた。こういうのはやはり参加した数というのが大切な力となる類のものだと思うので、たった2週間でこれだけの人々が集まったというのはすごいことだと思う。そして家畜仲間、小里くんはカンパ班のリーダーとして人々を仕切った上、なんと紀ノ国屋の壇上で朗読までしていた。渡辺えり子さんとか三田和代さんとか吉田日出子さんとか錚々たるメンバーに混じって「朗読」。すごいな。小里くん。カッコよかったよ。会自体も斉藤憐さんの構成台本に沿って、さまざまな人々の言葉を「朗読」や歌でつなぐというシンプルなもの。見世物としても魅力的なものだったと思う。
とは言え、ボランティアまでさせてもらいながら詩森はやはりいろいろ考え込んでしまうのだ。この「戦争は間違っている」とか「ブッシュ許すまじ」とか、そういう言葉がどうにも喉につかえるかんじってなんだろう。もちろん私自身、戦争には反対なんだけれど、ある種の信念であるとか、正義というものを押し出すこと自体に、どうしたことか本能的な恐怖感を感じてしまうのだ。「これは正しい」と信じる気持ちは人を信じがたい行動に走らせることがある。そのことが身体にインプットされてしまい、「自身の信じる正しさ」に真っ直ぐに向かえないわたしがいる。つまりそれが地下鉄サリンや09.11に付随するわたしの後遺症であり財産でもある。人は「正しい」と信じることの前にあっさりと思考を停止する。だからまず自らの正しさを疑い、そして何度も検証するべきなのではないか。「全ての戦争はほんとうに間違っていたのか」。「イラクの子供たちの悲惨な状況は果たして戦争を悪とするほんとうの根拠となりうるのか」。「革命と戦争はどこで線引きされるのか」。わたしのなかには答えのでないたくさんの検証すべき事柄がどんどん積みあがっていくばかりだ。
ただひとつこうは言えないだろうか。それは戦争の問題を情緒の問題にすりかえてはいけないのではないかということだ。すなわち、戦場の子供たちに心痛めることと、戦争に異議を唱えることは実はイコールではないのではないかということである。「こんな悲惨な状況に子供たちをおいてはいけないから戦争をしてはいけない」という論旨は、万一わたしたちの国のこどもたちに危害を加える国があったときに「子供たちをこのようなひどいめにあわせた国に武力的な制裁を加えるべきだ」という論旨にあっけなくすりかわる類のもののような気がするからだ。もしも全ての戦争を放棄せよというのなら、そこには自身の国に対するどのような危害にも武力での抵抗をしない前提を必要とするであろう。なにか凶悪な犯罪がおこるたび「そんな奴らは死刑だ」といとも簡単に口にするわたしたちにそのようなことは果たして可能なのか?
繰り返すが、わたしは戦争には反対だ。しかしだからこそ思考するのだ。無駄なことも無駄でないことも、時間の許す限り考え続けるのだ。戦争はもしかしたら良いものかもしれないという可能性さえ、わたしは考えたい。このイベントはそのひとつのキッカケにすぎない。始点であり、頂点ではない。関わったものとしての責任を感じつつ、紀ノ国屋をあとにしたのであった。
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