■2004年7月の日記

7月16日 

■朝から筑波付属駒場高校向けWSのプレゼンテーション。山田さんがPCがクラッシュしたと言っていて、悲しそうだった。例え人のことでもPCがクラッシュしたという言葉には常に自分のことのように悲しくなる。なぜだ。
■でもって、森美術館に行ってみる。目的はイリヤ&エミリアカバコフ展。まあついでにMOMAも見ておくか、と。イリヤ&エミリア・カバコフ展はコンセプトアートの最たるもので、というのは作り物が比較的雑で、魅力に欠けるからそう思ったのかもしれない。でもコンセプトについてのレジュメを読んで、ちょっと泣きそうになったりするあたりが現代美術は油断ならない。
■ついでに見たとは言え詩森好みのラインナップを集めたMOMA展はしかし、わたしはぜんぜんグッとこなかった。というか、MOMAってあんなダメダメなコレクションばかりなの?なんちゃってピカソやなんちゃってシーレや、なんちゃってモネや。まあモチロン本物なんでしょうけど、出来の悪い作品ばかり並べられている気がして作家に気の毒だった。そしてこれを置いておけばなんとなく現代アートでしょなウォーホルのハインツ缶のダンボールやら、なんとも魅力に欠ける。場所のせいかなあ。思っていたより空いていたのは良かったですが。
■大好きなキーファーとかもあったんですけどね。あの今はなき西武美術館でキーファー展での感動には遠く及ばなかったなあ。というワケでMOMAがダメなのか、それとも今回の森美術館セレクトがダメなのか、とても知りたい詩森でありました。いつか行くぞ。MOMA。
■そしてどーでもいいコトだけど、ミュージアムショップ多過ぎだよ。森美術館。商魂たくましいのも程度問題。品がなさすぎる。ディズニーランドじゃないんだからさ。ま、でもいいか。何気に初六本木ヒルズだったしね。
■そしてようやく本日のメイン・イベント。俳優座プロデュース「ハロー・アンド・グッドバイ」。北村有起哉くんと久世星佳さんのふたり芝居。1幕はタイクツでタイクツで、ああ、高いお金払ってまた失敗してしまったのか・・・と泣きそうだったけど、15分の休憩挟んでのニ幕はこれはもう文句なく面白い。確かにね、外国人独特の戯曲の多弁さがちょっとウザイかなあ、と思ったりもしたけど、それを割り引いても、とても素晴らしかった。南アフリカの片田舎、アパルトヘイトの国のプアーホワイトの姉弟の話。俳優というのは、そんなわたしたちの日常から掛け離れた存在にリアリティを与え、その他者の人生にこちらを巻き込んでいくことができるスゴイ職業なんだな、と北村有起哉くんを見ていて改めて思った。前半、娼婦を生業としている女の類型的な演技が鼻についた久世さんも、ラストあたりは有起哉くんの熱が伝染したかんじで良かった。そして戯曲。父親はもう奥で死んでいるというオチは最初からバレバレだし、南アフリカという地域的な特殊性を別すればそれほど目新しい脚本ではないように思うんだけど、有起哉くん演じる弟が「恥ずかしいんだ。孤独であることが。慣れていないから。」と言った瞬間にもう解釈なんてどうでもいいや。この戯曲には降参だ、と思ってしまった。「孤独が辛い」でも「悲しい」でもなく、「恥ずかしい」。このみずみずしいしかし突き放した感性よ。泣いたよ。わたしは。横たわってそのセリフを吐く有起哉くんは痛々しく、それだけでチケット代払ってもいいと思うほど。クリエイターから一観客になり果てる瞬間は幸福でございます。タイトルの由来ともなっているお姉さんの最後の長セリフが蛇足に感じられるのはまあ仕方ない。ていうか、あんなセンチでウェットな演技させちゃダメじゃん、と思ったのはわたしだけなのかしら。残念ながらこの演目、もうチケットは売り切れみたいですが、再演の機会などありましたら、ぜひ。

7月15日 

■歯医者に行って図書館に行って、それから小竹向原の春風舎まで「セーフティ」を見に行く。いっしょに行くはずだった達平くんが現れず、どうも体調を崩したらしい。極端にに細く虚弱な体型なので、自分が体調を崩すよりイヤだ。
■演出家の田野さんはこの戯曲の翻訳から手がけたそうである。その意欲は素晴らしい。結果と結びついていたかというとそうとはいえない気がした。セリフが声量的にも意味としても聞こえてこないのが致命的で、全編がムードだけになっていたような気がしてとても残念だった。
■戦場カメラマンの感受性が少しずつ殺されていくような葛藤が、見えない。俳優がそのことについてどれほどの時間を使ったのについて、疑問を感じてしまうのではこの物語は成立しないだろう。実際にどれほど勉強したか、知ろうとしたかは一観客のわたしにはわからない。しかし、その葛藤を信じることが出来なければ、この作品を観続けるのはやはり苦しい。
■だったらサルガドを、キャパを、一ノ瀬泰三を、その写真を見たほうがいい。そこには全てが映し出されている。葛藤が無邪気が稚気が意志が弱さと強さが。宮本隆司の写真には、震災で崩れ落ちたビルのフォルムを「美しい」と感じてしまう、その彼の残酷さまで映し出されていた。そのことに傷つきながら、もしくは何も感じずシャッターを押す、その瞬間が映し出されてた。今、このモチーフを扱うというのは、それでも演劇にしなければならない何かを発見するということなのではないかと思う。ほしいのはメッセージでも政治性でもない。それでも演劇が、彼らの写真が映し出せなかったなにか、彼らが捨てていったなにか、それらを映しだす瞬間が見たかったと思う。

7月14日 

■でもって今日は神戸山内デモの「ソフトを練る会」。アゴラの稽古場でビッシリ4時間。いろいろな可能性を試しながらブレストにつぐブレスト。山内さんのアシスタントにつくとこの過程が面白い。モノツクリというものに対して雑になっている自分に気付かされ、背筋がシャンとする気持ちになる。
■しかし反省も束の間、なにも準備できないまま、劇団WS。初回。劇団員と新人、そして数人のゲストを迎えてのWS。まあ初回はゲームやちょっとしたデバイジングと決めているので、会場についてから開始までの10分ほどでパパッとプログラムを考える。だんだんアタマのどこかにWS脳が形成されてきたかんじ。あんなにWS苦手だったのに、経験を積むというのはスゴイことだな。そしてやはり8人から10人というこのくらいの規模がいちばんいいWSができると思うし私は好きだ。
■終了後は達平くんとモスバーガーで先日月島で撮った写真を検討。外から見ていたときは新人さんたちや椎葉さんも結構いいなあ、と思ったし実際よく撮れてもいたが、やはり吉川、特に松岡の迫力にはまるで及ばないというのがわかった。松岡さんはいつのまにこんな女優様っぽい雰囲気を身につけたのか、と驚き。チラシ・ウェブで随時公開されて参りますのでどーぞお楽しみに。

7月13日 

■シューレWS最終日。会場につくと白い幕が吊られ、照明もあってちょっとしたステージが出来ていた。今朝まで手を入れられた脚本で練習。そして発表。2時間あまりの練習で発表なので、もちろん演劇としては先があるのだけれど、初めて戯曲を書いて6本、よくぞ形になったものだ。発表会にはWS研メンバーや新劇団員を含めた劇団員も来てくれる。狭い会場が人で溢れていた。演技が拙くヒヤヒヤしたところもあったけど、まあまあ楽しんでいただけたのではないだろうか。それでも冷静に発表を見ると、演出家として欲が出てきて、ああもっと練習したかったなあ、と思ったけど。それにしても戯曲を書いてもらうのに4回というのはあまりに少ない。とは言え、最終的な戯曲を担当した人3人とは、何度もメールやFAXをやりとりし、かなり密な関わりをもてた。しかしそうでない受講者との間にはそれほど関わりが持てなかったのは、まあ仕方がないけどやはり残念だな。それにしてもシューレでの達平くんのアイドルっぷりはちょっとスゴかった。日頃、常にアイドルのポジションを欲しいままにしていた山田さんがあからさまに拗ねていた。そんなこんなで今年前半のWSの詩森的な山場は終了。今回は山田さんとの共同WSだったので、実にスムーズに無理なくやれたと思う。相性の問題と予算の問題をクリアできれば、戯曲WSのような手間ひまかかるものの場合、Wリーダーはとてもよいシステムだと思う。次は神戸のWSを全力サポートだな。

7月12日 

■渋谷で青年団の山内さんと会って神戸でのWSのブレインストーミング。山内さんという人はびっくりするほど「準備万端」な方で、やっつけ仕事をぜったいにしない。今回はいつもやっているセリフをラジカセに採って台本に作るWSをさらに発展させようと様々なアイデアを練る。
■達平くんと待ち合わせて五反田。fringeの荻野さんとお会いして、関西方面への旅公演のアドヴァイスをいただく。これに関しては来年以降でぜひ実現させたい。
■なんか大きい話になってきたがやりはじめたならやり切らなければ。

7月11日 

■新人さんを含めて風琴文庫のチラシの写真撮影。今回はチラシから空間、衣裳まですべてのデザインに関わる部分を詩森が手がけるということで、まあひとりっきりではあるのですが、ユニット名を作りました。「LIVESTOCK STYLE」。LIVESTOCKは「家畜」という意味なんですが、「LIVE」生きるための「STOCK」備蓄、というのがかなりキビシイかんじで泣けますね。この名前で最後はカフェとかやりたいですね。家畜仲間募集中。
■昨日朝4時に就寝したのにも関わらず、比較的早朝に起きまずは軽く掃除。最近キレイにしているので、ちょっと掃いて拭いて30分で終了。それから選挙。食品買出し。家に到着したところで、147センチの超ミニ新人宮嶋を含めた風琴工房女子部登場。
■キャーキャー騒ぎながら衣裳を決めていると、新人山ノ井くんを伴い、達平くん登場。これが風琴工房新生男子部。山ノ井くんも163センチと男子としては小柄。達平くんは170センチだけど50キロくらいしかない華奢な体型なのでやたらとフェミニンなかんじ。
■男子部を延々と待たせつつ、女子部は着替え、そしてメーク。和装・洋装・付けマツゲ・髪を巻いてカツラ風にと大騒動。そのあいだ、「ユビュ王」「紅き深爪」とビデオを見続ける達平くんと山ノ井くん。11時に集合したのに結局家を出たのは2時過ぎ。全てのヘアメイクと着物の着付けを担当し、グッタリ疲れた家畜詩森。さすが「LIVESTOK STYLE」。
■タクシーで月島へ。もんじゃストリートに隣接した路地で撮影。大正浪漫なお着物に番傘やらパラソルやら、キイチの塗り絵にしか見えない椎葉やら、異様に怪しい我々に「お洋服の本の撮影なの?」ととても優しい月島の老人たち。微妙にギャラリーも集めつつ、無事ロケ撮影は終了。家に戻って今度は室内撮影。
■それから新人含めての初ミーティング。それに続く怒涛の懇親会。家呑みということで油断し、振り切った酔っ払いとなった松岡・吉川に「舞台とはぜんぜん違うんですね・・・」と戸惑いを隠せない山ノ井くん。そんな山ノ井くんは懇親会のあいだ中、ずっとコマメに皿を洗っていた24歳、A型である。そんなA型の青年がこの恐ろしい妖怪たちの群のなかで無事やっていけるのだろうか、と思うと心配だが、写真撮影のときカメラを向けるといきなり顔つきが変わるという油断ならない一面も持っているのできっと大丈夫なんだろう。
■そんなこんなで終電まで。新しい風琴工房に出逢える風琴文庫は10月11日〜17日、自由が丘の一軒家、大塚文庫にて。一公演限定40名という超レア企画なので皆様、チケット確保はお早めにね。

7月10日 

■松岡さんとアゴラで三人姉妹。遅刻だあ・・・と走っていったら、なんと1時間間違えてて、受付開始したところに駆け込むという超間抜けなコトになっていた。トホホ。実験的な部分は既視感があってそんなに面白くなかったけど、ふつうのお芝居の部分がとてもよかった。日本語と韓国語と英語で、ちゃんとコミュニケーションが感じられてセリフがきちんと当っているのがビックリした。今までいくつか多国籍言語でやる舞台は見てきたけど、ぜったいコミュニケーションが成立してないんだよ。スタイルになっちゃう。そして水木さんが「生きていかなければ」というあの有名なセリフをいいはじめたところで、またとつぜん泣きそうになった。生とは戸惑いの連続なんだと、その戸惑いを隠そうともせず、でも「生きていこう」と呟く水木さんの表情に不意打ちのように打たれた。ステキだった。
■松岡と別れ、夜は達平くんと越中島朝吉商店。柏木さんに伝えます、と約束してまだ何も言ってないので感想はナイショ。
■それから劇団の打合せ。日記を読んでいると毎日、達平くんと会っているように思われるかもしれませんが、それは気のせいではありません。明日はようやく達平オフかと思ったのに、劇団の写真撮影になってしまった。明後日こそは死守するつもりだったのに、とある方との密会があり、達平も同行する予定になっている。いつかとつぜんお互い顔も見るのもイヤということになりそうで怖い。飽きっぽいB型同士なのでね。

7月9日 

■指輪ホテルの「リア」を観に原宿へ。今日も椎葉さん以外全員集合。仲良しだよ。風琴工房。
■久しぶりに羊屋さんがパフォーマで出ているのを拝見して、ちょっと嬉しいわたしはやはり羊屋ファンなのだろうが、羊屋さんが出てしまうと、ひとつひとつのパーツがちょっと冗長になる気がする。でも女の子たちがパワー全開で、エネルギーがあって、それは良かったな。作品自体は羊屋さんがニューヨークに行く前の指輪のテイストが戻ってきたようなかんじだったけど、パフォーマの人がみんな自立的だったのは以前と決定的に違うところだ。ここのところの継続的な作業の成果なんだろうなと思う。そして羊屋ファンの詩森としては、羊屋さんが裸で氷に身を打ちつけるシーンでなんとなく泣きそうになったりしたのでした。なんだろう。全体的に大感動、とかそーゆーのじゃないのに、とつぜん泣きそうになるんだよな。なにかに反応しちゃうんだよな。ビリビリっと。そして明樹由佳さんのつい半年前に子供を生んだ40代女性とは思えないカラダと美しさにビックリしたよ。ホント、ビックリした。完璧ボディ。あと田松絵美ちゃんという子は昔風琴工房にいた小川さんに似ていて、ああいう顔と身体はやっぱり好みなんだと思った。なんか素人みたいな感想でスマナイ。
■終演後、まえまえから行ってみたかったアパートメントカフェに行ってみたが、あんまり好みのカフェじゃなかった。スタイリストがキッチリ入ってるかんじのイマドキカフェだ。料理は美味しいけどね。最近わたしのカフェマニアぶりは度を超している。気をつけたいが止まらない。もともと喫茶店好きだからな。でもカフェマニアはバカっぽくてイヤなんだよな。はじめてしまったら止まらないだろうと随分気をつけてたのに、今頃になってブレイクしてしまったよ。微妙に乗り遅れてるかんじが更にバカっぽいのが悲しい。わたくしの場合、凝りだすと地図から営業時間からメニューから生き字引のようになっていきますので、カフェが必要な場合、ぜひご一報ください。ナビします。

7月8日 

■朝から足立智充くんの出ている映画「新しい予感」を観に銀座シャンテシネ。PFFアワードの予選に通り、大きなスクリーンで上映しているというので観にいったのだ。主役3人のキャラクタがよくて、楽しく拝見できるのだが、セリフがちょっと甘く説明的に感じられて惜しいなあ、というところがたくさんあった。あと暴力描写がいろんな意味で痛々しくなくて、この監督はあまり暴力を描くことに向いてないのかもしれない、と思ったりもした。それはわたしがバイオレンスでダークな表現が大好きなのに、自分ではまるきりうまく出来ないというのと同じような意味で(同じにされたくないかもしれないけど)。むしろ人間をはっきりと肯定し、人を求めていることを隠そうともしない、その優しさがこの監督のうつくしさかなあ、とわたしは思う。ラッセハル・ストレムみたいな。そして映像で見る足立くんはカッコよかった。でも上半身裸のシーンでは一刻も早く服を着て欲しくて悲しくなった。ランニングを着てくれて心からホッとした。あとでそれを言ったらそんなコト思うの詩森さんだけだよ、と言われたけど。あと、フラジャイルのレギュラーキャストの井上幸太郎くんが出ていたのでビックリした。子供が生まれて更正するチンピラの役で、あまりに似合っていて親戚の子供の私生活を覗き見したような気持ちになり照れてしまった。フラジャイル系にはどうも過保護のダメな詩森だ。
■同じ回を見ていた増田くん、達平くん、そして足立くんと遅いランチをしてから、下北沢で達平くんと買い物したり打合せしたり。
■でもってようやく今日のメインイベント。劇団員全員でテアトロ・コンプリシテの演出家、サイモン・マクバーニーのエレファント・バニッシュを見に行く。いやいやいや。おーもしろーかったー。舞台の上で起こるすべてのことを演出家が掌握しているという舞台。ここから先はちょっと真面目に論じさせてもらいますが。
■もちろん、映像を使った先鋭的でスピード感のあるビジュアルは刺激的で単純に面白い。しかし、この程度のコトなら、ダムタイプだってやっているし、音楽の使い方ならロバート・ウィルソンのほうが刺激的かもしれない。わたしが感心したのは、おそらくいちばん賛否の分かれるテキストに関わる部分である。公演全体を賛美した人でも「これが村上春樹的世界か」という一点で否定的な感情を抱く人が多いと聞く。
■これは確かにわたしたちの知っている叙情に満ちた村上春樹の世界ではないだろう。しかし、その叙情性を剥ぎ取ったらこうなってしまうのだろう、という村上春樹のある側面、ある種の冷徹さや、孤独の考察をありありと照らし出していたように思う。むしろ小説を舞台化というより、小説の評論を舞台化したような舞台なのである。そして「評論」などといういちばん演劇になりずらいものを堂々と「評論」のまま舞台に載せ、なおかつ見世物として成立させてしまったところにサイモン・マクバーニーの並々ならぬ力量を感じる。そこに現れる世界は、村上春樹というよりは彼の敬愛するレイモンド・カーヴァーやポール・オースターのそれに近い。村上春樹が英米文学を日本語で書いた小説家だとすれば、「エレファント・バニッシュ」はさらにもう一度本来の言語に訳しなおして提出された演劇というように思った。(演じる人は日本人なので使っている言語は日本語だけど)
■またこの作品は都市論として読み直す村上春樹とも言える。都市生活者、さらにはトウキョーシティというわたしたちの住むこの奇形の都市が主役であるとさえ言えるのではないか。その奇形のあり方に興味と驚きを隠そうともしないサイモン・マクバーニーの子供のような、しかし悪意に満ちた眼差しが生み出した、小説を媒体として行われる都市とアーティストのコラボレーションであった。
■刺激的な舞台であった。ほんとうに刺激的な。ああ。悔しいほどに。

7月7日 

■上野でort.d.d「四谷怪談」。どーゆー理由か不明だが会場に入った途端に顔が痒くなってボコボコしてきた。詩森は抗生物質とかに弱く風邪薬等でこういう蕁麻疹が出ることがあるのだが、今日はそういう心あたりは全くない。来る前に納豆巻きを食べたことくらいである。お岩さまのたたりかな、と言ったら達平くんに鼻で笑われる。言うんじゃなかった。でもあとで聞いたら昨日来た椎葉ちゃんも顔がボコボコになったそうである。ほら、やっぱりタタリかもしれないじゃんか。四谷怪談やって多少なりともタタリがあるのは演劇人の勲章ですよ。
■客席は満員御礼。すごいなあ。そして作品なのだけれど、凝りに凝ったスタッフワークに比してテキストが弱く感じられた。四谷怪談というのはどうやってもエモーショナルというか解りやすくエキサイティングにならざる得ない演目なので、ort.d.dの演技スタイルとミスマッチだったのかもしれないなあ、などと思う。もちろん演出家としてはそこが狙いだったろうし、自覚的に行ったのだと思うから、単純にわたしとの好みの違いなんだろうな。でもこのスタイルで「四谷怪談」を行うのであればやっぱりテキスト、もう少し練ったほうがよかったと思うんだけど、どうなのだろうか。

7月6日 

■シューレWS、3日目。みんなとても熱心だし、先週からまた何段階もいいものになっていた。しかし、ひとに戯曲を指導するなんてホント、おこがましいという気がする。難しいよ。戯曲って。まあでも謙虚に勉強させてもらうつもりで。来週は発表会。
■朝、オーディション結果をメールで送信。未来のための仕事なのになんとなく落ち込む。選んだり選ばれたり、その根拠のない残酷さに耐えていく仕事なワケだな。わたしたちの仕事ってヤツはさ。そして夜は夜で大量のメールを各所に送信。メールがなかったらこの何倍も仕事は面倒だとわかっちゃいるが、書いても書いても終わらぬメールにグッタリする。それにしてメールってのは出せば出すほどディスコミュニケーションが助長されてるような気分になるものですわね。

7月5日 

■「海鰻荘奇談」。岸田理生さんの未発表作品を縁の深い俳優さんたちがリーディングするというもの。俳優さんたちに実力があるのでそれを見ているのは単純に気持ちよい。しかし、肝心の戯曲が理生さんの作品として出来のよいものには感じられなかったのだがどうなのだろう。セリフにも美しい冴えがなかったように思われ、残念だった。

7月4日 

■劇団WS最終日。
■場所が不便であることと、前回まで発表の内容に自信が持てなかったこともあり、誰もお客さまをおよびしなかったのだが、今日はドアを開けたとたん、これはちょっとした発表になるかも、という予感があった。ほぼ全員が時間の1時間以上前から集まり、熱心に稽古をしている。稽古場の空気は全てを伝えてくれる。なのでアップもせず、それぞれのグループに時間を渡すことにして、稽古場の片隅でそれをずっと見ていた。
■ハムレットというのはやはり並の強度ではない力のある戯曲なのだ。そしてわずか1ヶ月の時間の堆積がコミュニケーションを生み出し始めている。演劇というもののダイナミズムを思った。
■思った通り、発表は非常に多彩で面白かった。正直ここまで出来るとは思っていなかったので驚いた。軽く打上げをして帰宅。
■いよいよ新しい劇団員を選択しなければならない。風琴工房が劇団員を「選択」などということができるようになったのはここ最近のことだ。風琴工房は選ぶということより、選ばれる立場をこれまでは取り続けるしかなかった。だからこの作業は苦手だ。選んでもらった人全てと作業をしていけたらいいが、残念なことにわたしにも劇団にもそのキャパシティはない。少人数を全力で育成する。これが最近のわたしたちのスタイルである。
■明日からは1週間で6本の芝居を見る。PFFに入賞した足立智充くんの映画もある。刺激的な日々になればいい。

7月3日 

■ユニークポイントのワークショップ生の公演と劇団員による企画公演。
■公演の主旨には全面的に賛成だ。俳優が脚本を書き、演出する。スタッフワークも出ていない俳優が行う。集団を形作ろうとする意志があり、また長期的視野にたった大切な試みだと思う。けれど今回について言うと2000円というのはちょっと高いような気がするけどどうだろう。劇団の俳優教育としての意義と興業としての価値が伴っているかどうかはまた別の問題として考えるべきだろう。
■まあいずれ育てるって難しいよな。と、ぼんやり自分の劇団のことを思う。俳優って才能の占める割合も大きいし。諦めちゃダメなんだけどさ。がんばらないとね。

7月2日 

■遠く、遠く淵野辺まで「もう風も吹かない」Bバージョン。
■近未来の青年海外協力隊の話である。その青年海外協力隊が今年で最後の派遣になる、というその年の合宿所での物語である。
■昨年見た人にとても評判がよかったので楽しみにしていた。
■しかし、どうだろうか。
■市民運動、どこかの戦争の捕虜収容所、青年海外協力隊、ある共同体として機能する、その場所で起こる問題は常に同じである。同じにしか書きようがないということもわかる。人が集う場所で起こってしまう問題に、そう千も万ものバリエーションがあるとは思われない。無軌道な男女関係や不用意な妊娠や、ルールからの逸脱や。そうして共同体は損なわれ、あるものは崩壊し、あるものはそれでもその場所を維持しようともがき、あるものはそこにいつづけるより手がなかったりする。
■しかし、それが例え真実であったとしても見ているわたしにそれを見続けるモチベーションがない。そこから得るものはもはやない。そんなものをこちら側に座って見続けるくらいなら、創作者として別にやるべきことがあるという気がした。
■学生ばかりの俳優たちは平田さんの指導の確かさもあいまって、びっくりするほど達者である。しかしそこには俳優であろうとする葛藤がなにもないように見える。その美しい施設同様、それは予め用意された権利であり、そこに疑いを抱くには彼らはあまりにも若い。
■そういった中からもしかしたら新しい才能は生まれ出てくるのかもしれない。しかし、そう安閑と信じることも難しい気がした。内部的な競争があまりないのだろう、と想像される。伸びやかで恵まれた環境は俳優育成にぜったいに必要だ。だから桜美林のこの試みはなんとしても継続していかなければならない大切なものだ。しかし、そこにやはりもっと葛藤と琢磨がなければならない。つまりは桜美林の試みが周知され、入るところからもっ出るところまで、健全なもしくは不健全な競争を強いられることが必要なのではないか。このことについてはしばらく考えることになるかもしれない。演劇教育、俳優教育、このところのわたしの最大の関心事でありテーマである。

7月1日 

■「劇」小劇場でグリング。
■手を抜かず書き込まれた戯曲と緻密な演出が素晴らしい。レギュラーキャストが常に課題を与えられ、自己模倣に陥らないように仕組まれているのも素晴らしい。
■しかしここまで完成度の高い、クリエイターとしてリスペクト出来る仕事をしてらっしゃるのだからこそ、わたしも真剣に見て、真剣に言葉を紡ぎたい。
■ここのところ、老いること、そして介護についての演劇を見ることが多い。先日のシャンプーハットがそうだったし、3月のユニークポイントのトリガーがそうだ。それは結局は家族の問題と同義として扱われている。親が老いるということに対する息子・娘たちの葛藤の物語として書かれている。殺人が起こったり、親の老いを受け入れていこうとささやかな覚悟を決めたりと、その結末はある幅を持ちながら家族とそして子供たちの葛藤の中に飲み込まれていく。
■老いを取り巻く日本の現在は確かにそんなものだろう。
■しかし、それをもし演劇という形にするのなら、劇作家はまずその切り口以外を求めることから始めるべきなのではないか。ある別な切り口を発見しない限り、どれほどに丁寧に作ったとして多少のシチュエーションの違い、出来の良し悪しは生み出せたとしても、2004年現在に上演する演劇として、ほんとうに価値あるものにはならない気がする。
■もちろんわたしにもその入り口はまだ見つからない。
■遠い、とても遠い場所に一筋の光のようなものが見えるような、見えないような気がするだけだ。しかし、どこから世界を切るとるかが重要なのだ、などというそんな馬鹿馬鹿しいくらい基本的なことも3年前のわたしであればひとつも考えていなかった。「紅き深爪」で賞をいただいていきなり理解したと言ってもいい。つまり虐待を書くために、虐待のがいかにも起こりうる場所を書いていてもダメだということ。虐待そのものを書くよりも虐待を描くために有効な方法がもしかしたらあるということ。つまり「紅き深爪」はその一点においてどんなにセリフを書き込んだとしても佳作の域を出ない作品であるという残酷な事実だ。ぼんやりした性格なのでなにかひとつ気付くのにも時間がかかる。どうにもこうにも。
■そして親との葛藤はわたしにとってはもうすでに過去の記憶でさえない。ここから老いに対峙するとしたら、それは自分自身のそれと、配偶者やその家族、つまり他人のそれという、わたしにとっては未踏のものである。その体験のなかからたぶん劇作家としてたくさんのことを学ぶ気がするが、その体験そのものを書くことをわたしはきっとしないだろう。戯曲とは平田オリザさんが最近の著作で書いてらっしゃるように非常に私性の強いものだと思うが、この場合にある私性と現実的な体験を書くことは、また異なることであるように思う。