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Book Review 「約束された場所で」
先に紹介した「アンダーグラウンド」の続編である。「アンダーグラウンド」がサリン事件の
被害者側のインタビュー集だったのに対し、こちらはオウム信者に対するインタビュー集である。
スタイルは前作を踏襲しており、インタビュー対象者に対する村上春樹の印象をまとめた文章に
続いてインタビューが行われるという形式になっている。
この企画はまずコンセプトの段階で尊敬に値するものであると私は考えるが、私があれこれ述べるよりも
「まえがき」というかたちで語られるこの本に寄せる著者の決意を読んでいただくのがいちばんのように思う。
「フェアであること」、と言ってしまえばなにか安っぽくも思えるが、村上春樹のこのふたつの仕事は
真の意味で「フェア」であろうとする意志に貫かれている。そしてそれは多くのジャーナリズムに
そして私たちに欠落している姿勢なのではないだろうか。
たとえば多くのジャーナリズムはオウムに対して「糾弾」という唯一の方法論を振りかざしている。
そのあり様は「集団ヒステリー」と言いたいようなものであった。
しかし村上春樹はそれとは明らかに一線を画した方法論でこの本を編んでいる。
それは、ひとことで言えば「素描」である。
あるがままに、見たままを、それ以上の情報は排除して描きとめる。
これは簡単なようでいて、そうたやすいことではないだろう。
しかし、あえて村上春樹は記述者に徹底することを自らに課している。
そしてその「素描」から浮かび上がるのは、オウム信者としてひとくくりにはできない「人間」である。
この本が(そしてアンダーグラウンドが)指し示しているのはまさにそこなのだ。
すなわち、あの時、あの場所で、予期せぬ毒ガスを吸い込み死んでいった人も、
サリンの袋に傘の先を突刺した人も、被害者である以前に、加害者である以前に、
私と似ている、あるいは似ていない、ひとりの人間であるという厳然たる事実。
その集積の上に史上希に見る犯罪を犯したカルト集団や、「サリン被害者」というひとくくりの
「顔のない人々」はいる。
それらの人々を「顔のない存在」にしているのは、テレビの前で高見の見物を決め込む私たち
に他ならないのだということに、私たちの手の内にある「責任の一端」に、
私たちはそろそろ気付かなければならない。
それ以外には、第二のオウムを、そして、「地下鉄サリン事件」を食い止める手段はないと、
私は今、強く思っている。
[1998.12.30]
Book Review 「あの頃はフリードリヒがいた」岩波少年文庫
最近ここに書きたいほど心の動く本に出会っていないので、ちょっと前に読んだ本書について書きます。
これはパソコン通信を通じて知り合いになった方に教えて頂いた、という点でも私の中ではちょっと異色。
児童文学です。舞台はナチの支配下でのドイツ。主人公「僕」とアパートのおとなりさんのユダヤ人の少年
フリードリヒとの交流を、小さな挿話を重ねていく、という手法で描いています。
この物語の中で作者の主観というのは殆ど語られることはありません。事実を記述していくように物語を紡いでいく。
そこから浮かび上がる差別というものの愚かさ、しかし望むと望まざるに関わらずそこに身を投じていってしまう人々
のあり様が言い知れぬ悲しみとなって私の心を濡らします。なのにそれに対してただ無力な自分がいて、
「あの頃はフリードリヒがいて、今はそこにいない」ということが私自身の記憶となり私という存在の原罪と
なって打ちのめされるようでした。
昔修学旅行でアイヌの集落を見学しにいった時に「暮らしていく」ということを切り売りしなければ
生きていけない人がいるそしてそれを「娯楽」として見ている自分というのに衝撃をうけたことがありました。
人はこんなに残酷な生き物なのだと「鶴の舞」に歓声をあげる級友たちの真ん中でおそろしく孤独だったことを
覚えています。
あれから何年もたったのに、私はいまだにただ傍観しているだけです。胸苦しくも切ない児童文学の傑作でした。
[1998.4.22]
Book Review 「アンダーグラウンド」
遅れ馳せながら村上春樹の「アンダーグラウンド」を読みました。これはサリン事件の被害者への村上春樹自身に
よるインタビュー集なのですが、あの気後れするような分厚さと「村上春樹とサリン事件!?」という
違和感にも関わらず大変面白く興味深いものでした。昨年読んだ「心臓を貫かれて」という彼が翻訳した
連続殺人犯のノンフィクションの後書きで、フィクションにこそリアルを感じ続けてきたけれども
「ノンフィクションの力」というのは確かにあるのだ、と認めざる得なかったというようなことを書いていて
印象深かったのだけれど、きっと彼の中ではそれに繋がっていく延長線での仕事だったのだと想像します。
この本はまず被害者の方に対する村上春樹からの印象を書き(例えば実直そうな人だ、とかそんなかんじで)、
その後に被害者の方の談話が続くという構成になっていて、それが60余名分、飾りもなにもない
淡々とした調子で綴られています。
談話はそれぞれ興味深く読んだけれど、最初に綴られる「印象」が「サリン事件の被害者」とひとくくり
にされがちなその人たちももとをただせばひとりひとり独立した個人なのだということに思い至る伏線と
してじわじわ効いてくるのです。「顔」が浮かびあがってくる。そこが良かった。
サリン事件、オウムへの村上春樹自身のコメントというのは殆どないのだけれど
彼があえて書かなかったその余白に「私たちが考えていくべき問題」があるようにも思いました。
村上春樹のどこか浮世ばなれしたムードはこのインタビュー集においても健在で、どこかしら
「世間知らず」といった感すらあります。そういった持ち味はそのままに「彼らしくない」と
きっと誰もが感じるであろう分野に敢えて挑んでいるところが村上春樹の長年の読者としては
興味深かったです。私のように「分厚い」「値段が高い」と二の足を踏んでいる方はぜひ。
[1998.4.17]
Book Review 「不安の世紀から」角川文庫
最近「もの食う人々」というルポルタージュがベストセラーになっている辺見庸さんの著作です。
「もの食う人々」はインドからチェルノブイリまでを旅しながら、そこにある食べ物を食うことに
よってそこに住む人たちと「現実」や「記憶」を共有していく、という出色の旅行記なのですが、
「不安の世紀から」は「アンダーグラウンド」でカンヌをとったエミール・クリストリッツァ
(詩森がとても好きな映画監督です)、「サラエヴォ・ノート」で世界に衝撃を与えたルポ・ライター
ファン・ゴルティソーロ、心理学者のロバート・ジェイ・リフトンの三氏と今世界を覆っている「不安」
を基盤として時代の様々な事象を語り尽くす、という対談集です。どこをとっても刺激的ですが、
特にオウムのくだりは圧巻で、あの事件の持つ不気味さの本当の意味や、それに繋がるマス・メディア論
としてこれほど信頼のおける文章と出会ったことはありませんでした。
そして「もの食う人々」を併せ読んだ時にこれほど理知的な人にあっても「食べる」という行為は「混沌」
であり、自分の存在を根底から揺り動かすことだったのだということが更に感慨深く胸にせまります。
ぜひ一読をお勧めしたいと思います。
[1998.3.21]
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