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PLAY「月の岬」 青年団プロデュース

 舞台は九州の、日に何本かしかフェリーが出ないような小島の旧家である。そこには婚期を逃した姉とその弟が住んでいて、舞台はその弟の結婚式の日から始まる。ふたりの微妙な関係性は-冒頭のたったふたつの動作によって鮮やかに明示される。弟の口元についたゴハンつぶを取る姉の仕草と、化粧の濃さを尋ねるその媚態によってである。いささかあからさまでギョッとする演出であるが、このふたつの動作によって提示されたものが、その後、どんなに朗らかな場面が用意されていても、この物語の底にベッタリと貼り付き拭い去れない。姉の人物造形が、その場面以外ではむしろサッパリと創られているのでなをさらである。
 物語はその後、新婚のふたりが旅行から帰ってきたり、教師でもある弟の教え子たちが訪ねてきたり、どうやら姉と昔関係があったらしい男が復縁を迫ったりと、ととりとめもなく続く。妹の嫁ぎ先の舅が痴呆の果てに死んだ夜に不可思議に姉は失踪し、物語は唐突に終わる。様々な関係性と姉の生死までが曖昧な場所に放り出されるようにして途切れる。生者と死者の区別すらぼやけてくる。
 「この戯曲には解釈を拒否するようなところがある」と演出の平田オリザは書いている。実際解釈しようと試みると、あまりにもたくさんの選択肢が用意されていて、いくらでも深読みが可能である。平田演出においては、特に明快な解釈を提示しないかわりに、物語を深読みするための様々な選択肢と、場面場面に登場する人物たちの感情が、手にとるように解るように、細やかに演出がなされている。無論激しい感情の吐露がなされるわけではなく、むしろ言葉とは裏腹の押さえ込まれた、もしくは本人すら気付かぬ真情が、ずるりと流れ出してしまったような提示のされ方である。その感情のひとつひとつがかつて自分のものであり、確かに見覚えがあるものであり、私たちは物語から目を離すことができなくなる。姉と嫁が弟のシャツを黙々と畳む。そこに交わされる会話はあまりにも何気なく、しかし、恐ろしい。所有欲とそれに伴う嫉妬を、あんな形で提示されてしまっては、もう息を呑むしかない。
 終幕、妹の義父の葬式に、嫁は姉の残した喪服をさらりと来て出席する。控えめで、性質の良い嫁の人物造形が、この行動とそぐわず、しかし、家と男を同時に手に入れた女の安定を、そのそぐわなさ故に鮮やかに見せている。弟と嫁はかつての姉の部屋へと入っていく。そこで喪服を脱いだ嫁と弟はセックスをするのかもしれない。ちりりんと全てを見守ってきた風鈴が鳴る。いつまでも忘れられない舞台を見たのだとその瞬間に理解する。
 その日、私も「月の岬」にあった。海に映る月を見た。私の生が、そして死もそこにあった。演劇にはまだこんな力がある。素晴らしい舞台であった。
[2000.09.12]
PLAY「王女メディア」 ク・ナウカ

 「子殺し」の側面ばかりが強調されがちなこのギリシャ悲劇だが、ク・ナウカの「メディア」においてはジェンダーの問題としての読み直しが興味深かった。
ク・ナウカは読み手と演じ手、二人一役による「人間浄瑠璃」という独特の形態を持つカンパニーだが、今回、読み手は全て男性であり、演じ手は全て女性である。この演出意図は最初はっきりとは提示されない。この演出意図が最後の一瞬に鮮やかに提示されるのが、なんといっても今回の白眉であった。
 そのラスト・シーンを見た後になると、オープニングのシーンの意図もまたいっそう示唆的である。顔のない女たちがずらりと並べられた舞台上に、学士と思しき男たちが高らかに話しながらあがってきて、さて、宴席の余興としてか「ギリシア悲劇」でも上演しようかと配役を発表しはじめる。男たちはいささか乱暴に演じ手となる女を選択し、一段高いところにしつらえられた高見の台に鎮座する。
 そこで、朗々と演じられるのが今宵の「メディア」というわけである。
演じられる芝居はメディアの演じ手である美加里の完成度の高いパフォーマンスもあいまって、これは単純に面白い。ギリシアを明治の日本、そしてメディアを韓国の女と置換えた演出も意図はもとより、視覚的にも楽しむことができる。
 しかし、なんと言ってもやはり全ての悲劇が語り終えられたその後に、付け加えられた終幕こそが、今回の「メディア」の真のクライマックスである。
 その終幕で、何百という書物が舞台上に落ちてくる。その時、するすると宴席の後方にしつらえられた簾が巻き上げられ、そこにメディアはじめとする演じ手の女たちがすくと立つのが見えたその刹那、メディアは語り手の男の上にその手に握った刃を振り下ろす。次々と男たちは女が懐に抱いた凶器に倒れていく。女たちがするりと衣裳を脱ぎ捨てると、そこには同じ白いドレスを纏っている。
 つまり今回のメディアは、メディアという女の復讐の物語であると同時に、男性性というものに隷属しつづけてきた女性性からの復讐という二重の復讐の物語となっていると言えるのではないだろうか。また、語り手と演じ手が分かれるという特殊な方式を逆手にとった、演じ手によって語り手が殺されるという仕掛けは、語られた言葉(物語)自体がすでに「男性性によって語られた実体のない女」である、という意味にも思われ、興味深かった。「メディア」という題材自体が「女という不可思議な生き物について十全に描き切った傑作」という評価を欲しいままにしているだけに尚更である。
 ギリシャ悲劇の時代から、男性性によって構築された社会とそこに隷属する女性性という構図は驚くほど変わっていないように思われる。わたしは、ことさらフェミニストでも女性解放論者でもないが、女性性と男性性が、白と黒の衣裳、というものできっぱり象徴されてしまう社会というのは随分と貧しいものなのではないか、とク・ナウカ「メディア」のカーテン・コールを見ながら思った。
 ギリシャ悲劇の普遍性を高らかに謳い上げると同時に2500年立った今も「ギリシャ悲劇」の構図の中にすっぽりと納まってしまう人間の愚かさを提示する、大変刺激的な舞台であった。
[1999.10.27]
PLAY「DOOM 神州纐纈城」 魚人帝国

私はこの作品を追いかけて小さな旅をした。
山梨県本栖湖、東京王子神社、そして浦和。
芝居の方はその何倍も旅をしている。魚人帝国は京都を本拠地とする天幕芝居。移動しながら天幕を建て、バラし、また旅をする、そんな旅の劇団である。
ある時期、決定的なムーブメントを起こし、そして形骸化していった印象のある天幕芝居は、このところの私にとっては単なるノスタルジィに過ぎなかった。もちろん、テントの暗がりから芝居を始めたおそらく最後の世代に属する私にとって、60年代アンダーグラウンドは今までも、そしてこれからも特別な意味を持ち続ける。しかし、それだけに、遺蹟のようになってしまったテント小屋で、気温とは関係のない寒さに、私はここ何年も震え続けてきたのだ。ところが魚人帝国の、平均年齢で20代後半という若い集団のさししめすこのみずみずしさはなんだろう。赤々と燃え上がる生命力の無垢すぎるほどの逞しさはどうだろう。肉体も感情もただ喪失しつづけながらあがいているこの時代を、真っ直ぐに射抜く一本の矢のようではないか。演劇に祝祭はいらないのかもしれない。いや、こんな時代だからこそ、祝祭はやはり必要なのかもしれない。しかし、そんなことを論ずることすら、この芝居の前ではなにかとてつもなく無意味なことのように思えてくる。要であっても不要であっても、そこに祝祭はある。どうしようもなくある。それだけが真実だ。
「生き抜いて、また、会おう」そう言い置いて、ラスト、船は長く引かれたレールの上を大海原へとこぎだし遠ざかっていく。その愚直さに胸を射抜かれ、ただ旅の終わりを呆然として見送る。
立ち会えたことが、至福だ。
[1999.10.04]


CINEMA「アイズ ワイド シャット」

巷間では賛否両論の否の方が勝っている印象のキューブリックの遺作である。正直言ってまるで期待していなかったのだ。年老いた巨匠、というのは時に人をがっかりさせるものだし、「フル メタル ジャケット」を封切りの日の朝一番に並んで観たあの日から、すでに12年の歳月が立っているのだ。しかし、実際の目の前にたち現れた「アイズ ワイド シャット」は、新進気鋭の新人監督の作品とでも見まごうような瑞々しさに満ちたものだった。
予告編を観た人であれば、キューブリック式のセンセーショナルな異常世界を大期待して劇場に向かうことであろう。しかし、それは冒頭からほぼ裏切られ続ける形になる。これは平凡な男の平凡な性欲に関するドキュメンタリーフィルム、夫婦というものの真実を容赦なく暴きたてる物語であると同時に、継続的な関係に愚直に取組んだ人間にしか到達しえないある愛の物語でもある。私たちは覗き見するつもりで劇場へ出掛け、逆にあけすけに覗かれる。キューブリックの視線の中でまる裸にされるのは実のところニコール・キッドマンのゴージャスな肢体ではなく、醜く脂肪をまとった貧相な自分の体であることに物語を追う途上で気付く。その事実に耐えたものだけに、まるでクリスマス・プレゼントだよ、とでも言いたげなラスト・シーンが訪れる。これは映画史上に残る犯罪だ。精巧緻密すぎてかかったことにすら気付かぬ罠だ。隣の席の女が「ぜんぜん解らなかった」と鼻にかかった声で恋人にしなだれかかる。その足にもしっかりと鋼鉄の爪は食い込んでいる。「アイズ ワイド シャット」賛であっても否であっても、観るべきだ。劇場で体験すべきだ。自爆装置付の甘くて苦いこの危険なトラップを。
[1999.9.12]


CINEMA「シン・レッド・ライン」

戦争の愚かさと恐怖を十全に描きながらもそれだけに止まらぬ傑作である。アメリカ軍によるガダルカナル奪回作戦を描いたこの作品では、現代の映像技術を駆使した撮影によって、真にリアルな戦場を描き出すことに成功しているが、それだけであれば、同じく第二次世界大戦を描いた「プライベート・ライアン」と特には変わらないものであったと思うし、「リアルな戦場」だけの問題ならむしろかの作品の方が勝っている。ドラマ作りの部分でも時に話の筋が追えなくなる瞬間などもあり、完璧とは言えない。しかし、この作品にはスピルバーグが願って叶わなかった決定的な深みがある。それは、今までどんな戦争映画も到達できなかった崇高で残酷な真実である。「シン・レッド・ライン」では、繰り返しガダルカナルの自然が描かれる。それは戦場の広漠たる現実から考え合わせると、いかにも不似合いな、呆然として見とれてしまうほど圧倒的に美しい光景だ。光、水、風、原住民たちの生活、そして、戦場に舞う蝶。それは戦争の背景などではなく、戦争とは無関係に存在し続ける「いのちの営み」そのものである。その「営み」の中に「戦争」という人間の最大級に愚かな営為が飲み込まれ、途方もない虚無感だけが後に残る。自然をそしてそこにある「営み」を戦争に対する安っぽいアンチテーゼなどではなく、「ただそこにあるもの」として描き切ったことは衝撃的であり、そのことが、この作品を単なる戦争映画とは一線を画した高みへと導いたように思う。必見である。
[1999.4.24]


PLAY 「寿歌」

プロジェクト・ナビの「寿歌」を観に話題の新国立劇場に行ってきた。
パンフレットをよると20年前の作品とのこと。名作の誉れ高い作品だが、初見である。 旅芸人の男と少女(フェリーニの「道」ジェルソミーナとザンパノを思わせる) が核戦争後、と思われる廃虚となった世界をただあてもなく旅をする。 途中、ひょんなことから旅の同行者となった男はどうやらキリストであるらしい。 そのキリスト様がその荒廃しきった世界から2人を救い出してくれる、などということはもちろんなくて、 あっけないほどに彼は去り、ただ旅は続いていくばかりである。そんなお話。
これだけ書くと、「それがどうしたの」と思う方もいるかもしれない。
ほんとに「それがどうした」なのである。
しかし、これを見て詩森は泣いた。号泣した。
ラスト、不意打ちのように降りしきる雪に「やられた」というのもあるだろう。否定はしない。 でもそればかりではない筈だ。雪の中をあてもなく、ただひたすらに歩く2人は、嫌が応でも、今や「予感」 では済まされない「終末」に向かって歩く私たちの姿と重なる。
この作品は「世界の終わり」がまだお伽話のようだった頃からたったひとつの約束となる今日の日まで、 ほてほてほてほて歩いて来たのだ。そして「神様」ではなく、「前へ歩く」ということがこの物語が指し示す 仄かな「救い」であることに強く胸を打たれた。
もちろん今や当事者として「終末」に臨む私たちはただ闇雲に前へ進めばいいというものではないだろう。 そのことを十分自戒した上で「前へ歩く」2人に、そしてその上に降り積もるグレートーンの雪に、 惜しみない拍手を送りたい。美しい舞台だった。
[1998.10.29]
CINEMA 「シュワンクマイヤーの作品たち」

旅行で訪れたチェコはカフカの故郷であると同時にシュワンクマイヤーを生んだ街でもある。(だそうだ) 人形アニメでは大家だけれど、多分名前にはなじみのない人が多いと思う。詩森も作品はよく知っていたけど 名前は知らなかった。チェコの人だということも実は帰ってきてから知ったくらいである。 だから偉そうなことは言えないけど、知人の絵描きがこの人の大ファンだったおかげでビデオをたくさん手に入れた。 結果から言うと、これがものすごく素晴らしいものだった。特に「快楽共犯者」という実写とアニメーション が絶妙に絡む作品は、ちょっと衝撃だった。
怪しいタイトルが示すように変態的な行為に耽る人々の話なんだけれど、ものすごいイマジネーションの豊富さと そのイマジネーションが向かうベクトルのおばかさんかげんが、そりゃもうクセになるぜえ、の素晴らしさなんである。しかも「共犯者」。 「共犯」たってなにか一緒に「スル」わけではなくて、視線を交わすだけ。
「ねえ、あんたもでしょ。あたし、知ってんのよ」って、出演者たちは隠微に目配せする。「あたし知ってんのよ」。 うわあ見られた?って思ってしまったとしたら、あなたも立派な共犯者、という意地悪な仕掛けもついている。必見。
[1998.8.17]
Television 「ブッダ−大いなる旅路−」NHK特集


最近よくNHKを見ていて、偶然面白い番組によく出会います。これもそのひとつ。
ブッダっていうと神様の一種だと思っている人が多いかもしれないけれども、実はブッダ自身は 神の存在も前世も来世も天国も「ない」と言っているのですね。生は一回性のものであり、生きることは 苦しいものだけれども心の持ち方で心の平安を得ることが出来るというのがブッダの教え。
これはそのブッダの基本的な教えををきちっと押さえた上で、その仏教がどのようにして歪曲したのかということや 歪曲に至る人々の願いのあり様、そして今アジアの国々にどんな形で仏教が根づいているか、ということまで 広くそして深く追っていく番組です。ブッダのことをあまり知らない、という方、この機会にぜひご覧になって 下さい。私もこの番組を見て、「なんてまともな考え方の人なんだろう」という思いを新たにしています。 次回は5月11日(日)、月一全6回の第2回目です。
[1998.5.8]
後日談→その後この番組は私の望んでいた方向とは随分と違う方向に行ってしまった。残念だ。
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