![]() | 詩森の創作や演劇に関わるメモ書きのかわりのコラムです。更新不定期、予告・告知なし。たまに覗いて下さいませ。 |
| イラク邦人人質事件に際して思うこと |
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昨夜からたくさんのメールがわたしのもとにも届けられている。即時性のあるインターネットの力を思うと同時にそこにある確信に多少の怖さも感じる。その情報はひとつひとつ検証されたものなのだろうか。そもそも「イラク」の「テロリスト」が自衛隊の撤退を求めて邦人を拘束しているというのは事実なのだろうか。首相官邸にこれから送ります、という声明文も読む。多少の違和感も立ち上がる。しかしそのことに拘泥し今なんらかの動きをしないこともどうなのだろうかと思う。個人的には署名に協力したり意見文を送ったりする。本音を言えば「とても立派な気持ちでイラクにいった3人を見殺しにしないで」といった意見にそれは違うんではないか、と思っているわたしもいる。3人が立派か立派でないかは人命の尊重にはなんらの関係もないことだ。あくまで、自衛隊はそのもともとの違憲性によって撤退すべきだろう。チェーンメール的なものは正義が目的であっても行わないのがポリシーということもあり、メールをわたしの先に流すことは見合わせる。もしほんとうになにがしかの意見がある人であれば、自分で為すべきことは自分で見つけられる筈だ。 以下、今回の戦争と自衛隊派遣に関しての現在の詩森の意見を書き残しておくことにする。また考えが修正されたらこのコラムにまた書こうと思う。署名より(こういう場合「数は力」なので署名はしたけど)、まずは自分がきちんと考えることだ。 まずは今回のことがなかったとしても詩森は自衛隊の派遣には反対である。あれは明らかに違憲行為であるし、憲法をまもるという前提を覆してしまうとそれはもうよるべきもののない社会だというのを認めてしまったこととなる。いや、すでに認めてしまったのだ。しかも憲法に反する法律を制定するという抜け道とも言えない抜け道を使って。 違法を前例により無効化する。 これはわたしたちの社会にとっていちばん恐ろしいことだ。 憲法についての是非をここで論じると長くなりすぎる。あの憲法はアメリカによってその主だった部分を作られており、憲法9条自体ももともとは「軍国主義の日本、侵略戦争をしてしまう日本にはもう二度と武器を持たせるべきではない」という考え方に基づいて制定されている。されている、と断じるのは危険だけれど、少なくとも日本以外の諸外国は憲法9条をそのように捉えている人が多く、日本人の多くがこの憲法を誇りに思っている(もしくは思うように教育されている)ということは実はあまり知られていない。これがよく聞かれる「アメリカが日本を丸腰にする憲法を作ったのだから改憲すべきだ」という論調の論拠となる。しかし、ほんとうにこれが悪い憲法かというとほんとうにそういうことなのだろうか。少なくともわたしはそうは思わない。まあしかしどうあれ、憲法9条は現在あるのだから、これは守られなければならない国の最高規律である。 また遡ってはアメリカによる戦争自体が国際法を無視したものであるという事実がある。「かの国の人々のために悪い独裁者を駆逐せねば」などという理屈に世界が乗ったのは愚かというより、アメリカが覇権国家であり、アメリカのやることが世界の正義だということを指し示しているように思う。これをもし日本が行ったとしたら世界中から正しく非難を浴びたことであろう。内政不干渉は原則である。政治が変わるということに対するデメリット(それはどんな場合にも必ず発生する。メリットばかりがあるワケではない)にもしその国の国民が耐えうるとしたら、それは内部的な力によって行われた場合だけであるということをわたしたちは歴史から学ばなければならない。いや。ほんとうはみんなそんなことは知っているのではないか。なのにアメリカだから見過ごされた。こんな前例を作ってしまったというこのことの真実の恐ろしさをわたしたちは今後の年月をかけて知っていくこととなるだろう。国際法は拘束力のない紳士協定的なものだが、だからこそ守るべきものであるとも言える。これを無効化してしまうことは、いやしてしまったことは、なによりも取り返しのつかないことであろう。 しかしやってしまったことだからそれでいいということにはならない。邦人3人の命のために、ではなく、「違憲であるから」。自衛隊は撤退するべきだ。そしてそれがこのタイミングであってはいけないともわたしは思わない。そもそも間違っていることから撤退する上で人命が確保されるのだとしたら、それを止めてまで正論(わたしにとっての)を吐き続けることにあまり意味は感じない。但しこのことがキッカケで撤退が決まったとしても、それを人道的な美談にしてしまってはならないとも思う。テロリストが要求したから撤退したということでは困るのだ。例えばこう考えてみて欲しい。「3日以内にアメリカに戦争を宣言しなければ人質を殺します」と犯人が要求したとしたら。あなたはまた簡単に「尊い人命のためにアメリカと戦争してください」と言うのだろうか。もしそれはどうかと思うのであれば、そこは初めからイコールで結ぶべきことではないのだ。これはテロリズムに屈するな、などというマッチョな考え方に基づくものではない。反戦・非戦を願うわたしたちにとって、今回のテロリストからの要求が幸運にも「ニーズ」に合っていただけだという、それに飛びついてしまうことが引き起こすさまざまな可能性のことを言っているのだ。 [2004.04.10]
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| 雪の結び目 |
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風琴工房の掲示板に「雪の結び目」は理解しがたいところがあった、という意見をいただいた。「雪の結び目」はフランソワ=ミッシェル・プザンティというフランス人の演出家による作品で、フランス人の俳優と青年団、ク・ナウカ、山の手事情社等から選抜された日本人俳優によって演じられたものである。「理解できない」ということについて批判するものではもちろんないが、「こういったものを理解できる日本の観客が増えていきますように」と日記に書き、掲示板にそのレスポンスがあった以上、「雪の結び目」について多少なりまとまった文章を残しておきたい。 この舞台は最初から最後まで例外なく俳優のために存在する。もっと言うならば俳優の身体のためだけに存在するのだ。俳優の身体は脈絡なく怯え、怒り、暴力的となり、ただそれが執拗に反復されていく。ここまで書いただけで解るとおり、娯楽性などというものからは最も遠い舞台である。それはかつてタルコフスキやアラン・レネ、ゴダールという映画監督がエンターテインメントから最も遠い映画を撮ったように。私自身のことを言えば、タルコフスキとアラン・レネを偏愛し、ゴダールは全く理解不能(「気狂いピエロ」等数本の例外を除く)なので、そういった意味においてこの「雪の結び目」からなんのメッセージも受け取れない観客がいることは想像に難くないし、わたしはそれを否定しない。わたし自身、この作品に触れている多くの時間に退屈もしていたし、否定的な気持ちになる瞬間もあった。けれどキューブリックの「2001年宇宙の旅」という映画の退屈が見終えてみると人生を変えるほどの退屈であったように、転形劇場という劇団において観客に極度の緊張を強いることへの否定的な感情がその作品の忘れがたさを生んだように、わたしは「雪の結び目」という作品を懐かしく思い返すのだ。おそらくこれから先も折に触れて。 作品の受け取り方は当然のことながら自由だ。プザンティ自身、この作品がハリウッド的な成功を収めるなどということは最初から想定していないだろう。否定的な意見もとうぜんあると予測していた筈だ。しかし、この作品の高い抽象性が、抽象というものが持つ、本来的な、原初的な欲求に基づくものだということを観客は理解したほうがいい。すなわち抽象というのが、ある「モノ」の本質をよりダイレクトに掴もうとしたときに発現する、というシンプルな事実だ。世界ではじめて抽象画という概念を作ったのはカンディンスキだが、彼がある「対象」を描こうとして、それを解体していく作業は、まさにこの「抽象」のダイナミズムを「具象化」したものである。カンディンスキは「ワケのわからない」「なにが書いてあるのかよくわからない」絵画を書くことを目的として「抽象画」を書いたワケではない。より「対象」の本質に近い形象を求めた結果、線が省かれ、かたちが融解していっただけなのだ。この「過程」をともなわない「前衛」ひいては「芸術」ほど空しいものはない。それはただのスタイルに過ぎない。 さて、「雪の結び目」である。ここで行われるのは俳優自身の生の感情、リアルな身体へのアプローチだ。それを舞台でやることが果たして演劇か、ということについてはまた別のところで考えなければならないことだが、とにかく「雪の結び目」はそのことだけを求め、またそれに成功した奇跡的な作品と言える。俳優たちは自分自身の身体、「私」的な精神を舞台の上に引きずり出さなけければならない。しかもそれは「セックス」とか「ケンカ」とか解り易い形態ではなく、「下半身が結合していない、セックスを想起させるカタチをとらない、しかしセックスでしかない」男女の絡みであるとか、「怒鳴りあったり、アクションシーン的な段取りのない」暴力として発現する。こういったことは、主にインプロビゼーションの分野であれば意外にたやすい。日本でも「セミ・ドキュメンタリ」と題して「リアルな人間」を暴きたてようとした作品が話題となったばかりだ。その即興性において俳優の身体はリアルにならざる得ないだろう。そんな1回性のなかでは素人でさえ、あるリアルな身体を捏造することができる。しかし「雪の結び目」は違う。この作品では基本的に俳優は決められた段取りによって動き、まいにちほぼ同じことが反復されているのだと言う。この高い抽象性のなかで身体性を反復する。演出家が創作の過程で俳優にかけていったプレッシャーのことを思い、空怖ろしい気分になったほどだ。またここにおいては、日本人とフランス人の身体の違いもあからさまになっていく。プザンティはそれを否定しない。むしろ精神の標本を作ろうとでもするように暴き立てていく。フランス人俳優の身体は哲学や思想でできているのではないか、と思うほど思索的であり、日本人の身体は水や土、そういったエレメントのようなもので構成されているように感じる。フランス人の身体は意思的であり、日本人の身体は受容的である。 そして何度も繰り返し書いたように、これらのことは、必ずしも一般化できないところがある。抽象化していく過程を共有できるかどうかは、「感性」などと言う、たいへん曖昧なものに支えられているというのはあらゆる表現の宿命ではあるが、「前衛」という分野においてはさらにそれが顕著である。ただもしできることであれば、あなたが「解らない」と言って切り捨てた表現を「とても解る」と言う観客があるということを知ってもらいたいと思う。「解らない」ということはたったひとつの正義ではない。「解らない」というのは創り手側にだけ常に押付けられるべき責任ではない。時々でいい。考えてみて欲しい。「雪の結び目」という作品について。わたしがゴダールについて考え続けているように。「雪の結び目」という作品の特殊性について十分承知の上で、わたしはこの文章を敢えてこう結びたい。「この作品を理解する日本の観客が少しでも増えていきますように」と。 [2003.06.26] |
| 共同体幻想 |
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共同体幻想、という言葉があって、よく劇団に対して「共同体幻想を抱く気はないよ」と使ったりする。わたしも割とそう思っていたし現在も基本的にはそうなんだけれど、「共同体幻想を抱く気はない」というその中味について、多少勘違いをしていたのではないか、と思った。 集団を維持する以上、ある種のコンセンサスを持つことは必要である、としよう。そういう前提にたった場合、この集団(劇団と置き換えてもいいが)が共同体幻想を持たず、しかし、コンセンサスを得ようとした場合、徹底的な言語によるコミュニケーションが必要になるのではないか。何をあたりまえのことを書いているんだ、と思うかもしれないが、この「共同体幻想を抱く気はない」という言葉はむしろディスコミュニケーションの正当化として使われることが多いような気がするがどうだろう。つまり主宰者なり構成員なりが「わたしのことは解ってもらわなくていいわ」という意味合いにおいて使っているのではないか、と思ったのだ。つまりそれは、集団はコンセンサスを持たなくていい、ということになりはしないだろうか。こう考えると「わたしのことはわかってもらわなくてもいい」という考え方は「わからないわたしについてきて欲しい」と置き換えることができ、実は共同体の中でしか(もし集団を維持していこうと思った場合)通用しない考え方だということになると思うがどうだろう。もしこれを言う人が主宰者であるとしたら、それは家父長制の体のいい再現である。この集団は共同体ではない、しかし何らかのコンセンサスに基づいて集団を維持していくべきでいるという前提にたった場合、維持していくために必要になるのは言語だし、それに対する相互理解である。 「相互理解などというのはありえない」という認識が共同体の崩壊の前提であったことは承知ではあるが、しかし、「ありえないこと」を創出してこその創造芸術なのではないのか。ある時期以降、集団として抜けていく劇団がないことは誰しもが思っていることだと思うが、もし共同体幻想を抱くことなく、しかしきちんとした意識のコンセンサスを得ることができた集団があったとしたならば、それこそが次代に抜けていく集団であり、21世紀型のあたらしいカンパニーのあり方と言えるのかもしれない。自らの孤独感をシニカルに飾り立てる手段として「共同体幻想を抱く気はない」などとポウズをとっている場合ではないワケだ。と同時に劇団はこの世に取り残された最後の共同体であってもいいのかもしれない、ということも今日は考えたのだが、この件についてはまた次回。 [2003.05.20] |
| 共同体幻想 |
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共同体幻想、という言葉があって、よく劇団に対して「共同体幻想を抱く気はないよ」と使ったりする。わたしも割とそう思っていたし現在も基本的にはそうなんだけれど、「共同体幻想を抱く気はない」というその中味について、多少勘違いをしていたのではないか、と思った。 集団を維持する以上、ある種のコンセンサスを持つことは必要である、としよう。そういう前提にたった場合、この集団(劇団と置き換えてもいいが)が共同体幻想を持たず、しかし、コンセンサスを得ようとした場合、徹底的な言語によるコミュニケーションが必要になるのではないか。何をあたりまえのことを書いているんだ、と思うかもしれないが、この「共同体幻想を抱く気はない」という言葉はむしろディスコミュニケーションの正当化として使われることが多いような気がするがどうだろう。つまり主宰者なり構成員なりが「わたしのことは解ってもらわなくていいわ」という意味合いにおいて使っているのではないか、と思ったのだ。つまりそれは、集団はコンセンサスを持たなくていい、ということになりはしないだろうか。こう考えると「わたしのことはわかってもらわなくてもいい」という考え方は「わからないわたしについてきて欲しい」と置き換えることができ、実は共同体の中でしか(もし集団を維持していこうと思った場合)通用しない考え方だということになると思うがどうだろう。もしこれを言う人が主宰者であるとしたら、それは家父長制の体のいい再現である。この集団は共同体ではない、しかし何らかのコンセンサスに基づいて集団を維持していくべきでいるという前提にたった場合、維持していくために必要になるのは言語だし、それに対する相互理解である。 「相互理解などというのはありえない」という認識が共同体の崩壊の前提であったことは承知ではあるが、しかし、「ありえないこと」を創出してこその創造芸術なのではないのか。ある時期以降、集団として抜けていく劇団がないことは誰しもが思っていることだと思うが、もし共同体幻想を抱くことなく、しかしきちんとした意識のコンセンサスを得ることができた集団があったとしたならば、それこそが次代に抜けていく集団であり、21世紀型のあたらしいカンパニーのあり方と言えるのかもしれない。自らの孤独感をシニカルに飾り立てる手段として「共同体幻想を抱く気はない」などとポウズをとっている場合ではないワケだ。と同時に劇団はこの世に取り残された最後の共同体であってもいいのかもしれない、ということも今日は考えたのだが、この件についてはまた次回。 [2002.05.20] |
| 暮らす人のための演劇 |
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自分の演劇を誰に見て欲しいのだろう、と思う。ここから先は別に客を選ぶとかそういうことではないのでそのつもりで読んで欲しい。ずっと自分の観客を具体的にイメージできなくて、そのことについてあまり深く考えたこともなかったのだけれど、最近そのことについてはっきりとわかったので書きとめておくことにした。 普通に暮らしている人。でもこの世界に対してどこかしらの違和感を感じている人。違和感は感じているけど生活したり暮らすことを放棄している人、ではなく、暮らしているけど世界のありさまについて考えることはあまりない、という人でもなくて、不器用でもうまくいかなくてもその両方を生きている人に向かって書こう、そう思った。これはもちろんプロレタリアート演劇を作る、ということではありません。 [2002.05.17] |
| ゲイ・パレードに参加して |
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ゲイ・パレードに参加してきた。ゲイ・パレードとはセクシャル・マイノリティと呼ばれる人たちによるパレードで、8月27日、代々木公園を基点に渋谷、原宿と約1850人の人々が行進したのである。詩森もそのパレードに参加してきた。詩森は俗にストレートと呼ばれる、性的なことだけ言えば(染色体を調べたことはないので、解剖学的なところは解らないけど)マジョリティ側に属する人間だ。でもまあ、その日、代々木公園に集まった人たちの中では圧倒的なマイノリティなワケで、そんな詩森が仲間に加わって歩いてきた。マイノリティと呼ばれる、とか、ストレートと呼ばれる、とかそういう書き方はまだるっこしいかもしれないけど、そうやってカテゴライズされることには違和感を感じるためどうしてもそのような書き方になってしまう。でも現在状況としてそういうカテゴライズは圧倒的に存在するワケで、これはそういう現在状況の中、詩森が何を考え、何を乗り越えてきたかということに関するレポートである。 昨年末くらいから、詩森はこういったゲイ・コミュニティとの関わりを持つようになった。前作「透きとおる骨」を書くためである。最初、レズビアンでもないのにウーマンズオンリィのパーティに行くことにはものすごい罪悪感があった。それは「そういう人たちのための切実な場所なのに、私が行ってもいいのだろうか?」という罪悪感である。実際当事者の方にもそのことを嫌がる人もいると思う。しかし、そういった場所で、私が感じた見えないラインのようなものは、ゲイの人たちが日常的に感じているそれと同質のものであり、それを実感できたことはやはり貴重な体験であったと言わざるを得ない。セクシャリティが違うということが私たちの間に歴然とした違いとして横たわっている。そこを無視してみんな一緒、みんな同じ、と括ることには、カテゴライズすることと同じくらいの違和感を感じる。 私はモノを書く人間なので、取材というのは欠かせない。なのに、なぜセクシャリティに関する取材にはこれほどの罪悪感が伴うのか。そこには、優越感と劣等感が入り混じった不可思議な感情が伴っていたように今となると思う。偏見が確かにそこにあり、その偏見が確かに自分に所属するものだということが、苦しい。最初から平明な心でセクシャリティにまつわることと対峙できるようには、私たちは教育されてこない。目の前の人がゲイかもしれないという可能性について、私たちはあまりにも無知である。 知ること、そして、目の前の人がゲイであることに気付き、新しい関係性を築いていくこと、その繰り返しのなかでしか、私たちの共生というのはありえないように思う。ヘテロ・セクシャルを前提とした教育は、ゲイの人たちを狭苦しい場所に押し込めていくと同時に、ヘテロ・セクシャリストをも息苦しく圧迫しつづけている。 8月27日、私のからだは自由で風とおしの良いものであった。全てが明るく力に満ちていた。この自由な行進について、マスコミは殆ど無視を決め込んだ。そこには、「興味本位で扱ってはいけないこと」という一見美しい良識の力と、異型を無視する排他の心がある。だから私は私に許されたこのささやかな場所にあの日の圧倒的な楽しさを書き記しておきたいと思う。 [2000.8.27] |
| 過剰報道 |
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脳死にともなう臓器移植の件で、一昼夜、テレビはそのことを報道し続けた。
あれだけの衆人環視の中、臓器移植に同意し、故人の初志を貫徹させた御遺族には心からの畏敬の念を感じるが、
それにしても、あの過剰かつ過熱した報道ぶりはなんとかならなかったのだろうか、と思う。私自身、
臓器提供には積極的な気持ちでおり、例のドナーカードにもサイン記入の上携帯しているので、事の行く末
が気にならなかったと言えば嘘になるが、私たちの「知る権利」というものはやはりある線引きの上で成り
立っていくべきだろうと考えている。では、どこで線を引くか。今回の臓器移植の問題は報道によって
広い範囲に浸透した効能もあり、どこまでが必要でどこまでが不必要な情報かというのは、
簡単に決めることは不可能だろう。しかし、少なくとも脳死の確定までは報道を差し控える必要があったの
ではないかと確信を持って考える。そして、手術風景までカメラを侵入させるというのは、単なる覗き見趣味
を満足させるものであり、いかにも不必要なものに感じられた。
この問題だけでなく、私たちは垂れ流される情報の数々に、どこまでが自分にとって必要な情報で、どこから
が不必要なものなのかを、もっと習慣的に考えていかねばならないと思う。まず個人個人が自分の中で過剰報道
の線引きをどこでするかきちんと考えないことには、全体が修正されよう筈もない。そして、誰よりも各マスコミ
機関に自分達の報道についてもう少し批評性をもって欲しいものだと考えている。
[1999.3.24] |